《トモギ村》
禁教期に外海地区の多くのキリスト教信徒たちは潜伏して信仰を守り続けた。『沈黙』に登場するかくれキリシタンの集落《トモギ村》は外海をモデルに創作された。原作者の遠藤周作はこの地を取材で訪れ、小説を書きあげた。映画の制作準備のためにスコセッシ監督も訪れた。
《トモギ村》
禁教期に外海地区の多くのキリスト教信徒たちは潜伏して信仰を守り続けた。『沈黙』に登場するかくれキリシタンの集落《トモギ村》は外海をモデルに創作された。原作者の遠藤周作はこの地を取材で訪れ、小説を書きあげた。映画の制作準備のためにスコセッシ監督も訪れた。
バスチャン屋敷跡
禁教期に日本人伝道士バスチャンが隠れ住んだとされる場所。現在の建物は伝承を後世に残すために建てられたものだが、ロドリゴが信徒たちにかくまわれた炭小屋はこのような場所だったのかもしれない。
日本人伝道士・バスチャンの師であるサン・ジワン神父を祀ってある、日本に三カ所しかないといわれるキリシタン神社。周囲はキリシタン墓地になっている。
祈りの岩
禁教期に黒崎地区の潜伏キリシタンが密かに集まりオラショ(祈り)を捧げ伝習してきた聖地。迫害時代にキリシタンたちは「悲しみの節」の夜にここに来て、寒さに耐えこの岩影でオラショを唱えていたと伝えられている。
沈黙の碑
作家・遠藤周作の沈黙の碑には『人間がこんなに哀しいのに主よ海があまりに碧いのです』 と刻まれている。この碑の後方には、青い海と遠藤周作文学館を望むことができる。
1879年に潜伏キリシタンが多かった外海の出津・黒崎地区に赴任し生涯を外海に捧げたド・ロ神父が、風の強い斜面の台地に、1882年、私財を投じて建てた質実剛健な教会。
大野教会
禁教期に潜伏キリシタンが自分たち自身で組織的に信仰を続ける中で、氏子となった神社に密かに自分たちの信仰対象を祀り、オラショ(祈り)を唱えるなど在来宗教と信仰の場を共有していた集落であり、信仰の場であった神社の近くに、解禁後、教会堂が建てられた。
黒崎教会
遠藤周作がかくれキリシタンの取材で訪れたカトリック教会。聖堂は信徒によって一つひとつ積み上げた煉瓦で造られている。付属する鐘楼はかくれキリシタンの帰依を願って設置されたもの。
旧出津救助院
ド・ロ神父が女性の自立支援のための作業場として1883年に建て、織物、縫物、素麺などの食品加工などをおこなった施設。布教・生活向上の拠点として、様々な活動が行われた。
長崎市中
奉行所の探索から逃れるため、≪トモギ村≫を出て山中を放浪していたロドリゴは、キチジローの裏切りにより役人に捕まる。
長崎市中に連行されたロドリゴは、探しもとめていたかつての師であるフェレイラと再会するが、棄教後のフェレイラは沢野忠庵と名乗り奉行所で働いていた。
長崎奉行所立山役所
(長崎歴史文化博物館)
長崎奉行所でついにロドリゴは踏絵に足をかける。原作の奉行所は本博多町(現・万才町)とされるが、現在はここで立山役所の遺構と復元された建物を見ることができる。敷地内には遠藤周作が通ったレストラン「銀嶺」も移転され営業している。
日本二十六聖人殉教地
1597年豊臣秀吉の命令により外国人宣教師6人と日本人信徒20人が処刑された丘。
日本で信仰を理由に処刑された初めての殉教者たちのことは、ヨーロッパなどにも伝えられ、大きな反響を呼んだ。
雪のサンタ・マリア
外海地区の潜伏キリシタンの密かな祈りの対象であった≪雪のサンタ・マリア≫は映画に登場した。スコセッシ監督は教皇フランシスコとの謁見で≪雪のサンタ・マリア≫の複製画を寄贈した。
出島
ポルトガル人を管理する目的で、幕府が有力者に命じてつくらせた人工島。これが「出島」である。
映画では積荷の中に聖品が紛れていないか検査が行われた場所。
ロドリゴとフェレイラが再会するシーンのモデルとなった寺。フェレイラ(沢野忠庵)の誓書が書き添えられた「きりしたんころび証文」(県指定有形文化財)の書き損じが残されている。遠藤周作は証文を見にこの寺を度々訪れた。
※証文は非公開
フェレイラ(沢野忠庵)の菩提寺。遠藤周作はこの寺と付近の静寂さを好み、原作で晩年のフェレイラが住んだ場所として描いた。
大浦天主堂
幕末の開国にともなって造成された長崎居留地の中に、在留外国人のために建設した中世ヨーロッパ建築を代表するゴシック調の国内現存最古の教会。
1865年に献堂、直前に列聖されたばかりの日本二十六聖人に捧げられ、献堂直後に浦上の潜伏キリシタンが訪れ、信仰を告白した「信徒発見」の舞台である。
雲仙地獄
江戸時代、キリスト教徒に対する弾圧は一層厳しくなり、「山入り」と称し、キリスト教信徒たちを雲仙地獄におくり、地獄責めをして改宗を迫った。
雲仙地獄
今も活発に噴気を上げている雲仙地獄。「お糸地獄」 、「大叫喚地獄」など、およそ30箇所の地熱地帯があり、地底から噴き出す蒸気と熱気で覆われる光景は、まさに地獄そのもの。映画ではフェレイラの眼前で見せしめの拷問が行われた場所。
五島エリア
キチジローの出身地で、そこから来た信徒に懇願され、ロドリゴは五島に赴く。さらにトモギ村の迫害がはじまると、ロゴリゴは島へ逃げ、山中を放浪し、キチジローの裏切りにより役人に捕まる。
キリシタン洞窟
明治初めの五島崩れの際、迫害を避けて船でしか行けない険しい断崖の洞窟に隠れたが、焚き火の煙を船に見つけられて捕縛され拷問を受けた。この洞窟は後にキリシタンワンドとよばれ、1967年入口に十字架と3mのキリスト像が設けられた。
五島藩と大村藩の間でおこなわれた集団移住政策により、1797年、外海から108人のキリシタンが六方の浜に着いた。
堂崎教会
禁教令解禁後五島に初めて建てられた天主堂。長崎で殉教した二十六聖人の一人、ヨハネ五島の像が敷地内にある。現在はキリシタン資料館が開設され、キリスト教弾圧時の様子をうかがえる資料が展示されている。
淵の元カトリック墓地
十字架の墓標やマリア様を背にオレンジ色に染まる落陽は神秘的で美しい光景であり、厳しかった歴史とそれに立ち向かったキリシタンたちの強さを象徴しているかのように感じられる。
平戸エリア
南蛮貿易によって栄えた平戸。イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが布教し、この地から長崎のキリスト教の歴史がはじまった。島全島がキリシタンと言うほど布教が広まり、20年ほどの間に5,000人のキリシタンがいたが、激しい弾圧により潜伏の時代がはじまる。キリシタンたちは独自の組織で信仰を守り通した。
かつて多くの殉教者を生んだ根獅子の浜。「昇天石」と呼ばれる小岩で多くのキリシタンが処刑されたと伝えられており、「殉教者たちがこの小岩から天国へ逝った」とのことから聖地として大切にされている。
平戸市
多くの殉教者を出した根獅子の浜や、その殉教者たちを祀るおろくにん様などの聖地に取り囲まれるかたちで資料館が建てられており、納戸神やかくれ切支丹祭具などが展示され、密やかに守り抜かれた信仰の歴史を伝えている。
南島原市エリア
キリシタン大名である有馬晴信の対外的な力を表しキリスト教の繁栄とされている日野江城。それからわずか73年後、キリシタンによる幕府へ重税、飢饉の憎しみにより一揆が勃発。16歳の少年天草四郎を総大将に原城に一揆軍が立て籠もったが、一人を除き皆殺しとなりキリスト教の時代は幕を閉じた。
原城跡
禁教初期に島原と天草の潜伏キリシタンが蜂起した「島原・天草一揆」の舞台。多数の人骨に伴って出土した信心具は、禁教後も潜伏キリシタンが密かに信心具を保持し、組織的に結びついていたことを示している。
一時は肥前国に広域な勢力を伸ばした有馬氏の居城跡。大手門付近などに石垣が残る。近年の発掘で、キリシタンとなった有馬義貞・晴信の時代の状況をかたる仏式の墓石等も利用して作った階段遺構などが発見された。
大村エリア
日本最初のキリシタン大名大村純忠が治めていた大村領では、領主の改宗によって、領民たちもキリスト教を信仰するようになった、純忠が長崎などをイエズス会に寄進したため、長崎は「小ローマ」と呼ばれるまでにキリスト教文化が栄えたが、純忠の死後、息子は改宗。厳しい弾圧のなかでも、キリスト教を守り続けるキリシタンたちがいたが、捕らえられ、多くの信徒が処刑された。
大村藩の菩提寺。大村領では、キリシタン大名大村純忠の時代に領内のほとんどの神社仏閣が破壊されたが、禁教となり、棄教した証として最初に建てられた寺院。6mを越す巨大な墓石は、幕府の禁教政策のもと、仏教を信仰している証として、建てられたといわれている。
長崎市遠藤周作文学館
「沈黙」の舞台に立ち、「沈黙」の草稿をはじめ、肉筆資料や遺品など約3万点の資料を収蔵し展示している。
日本二十六聖人記念館
二十六聖人が殉教した西坂の丘に建つ資料館。ザビエルによる日本でのキリスト教布教から、弾圧の時代、二十六聖人の殉教、潜伏キリシタンの祈りから明治時代の信仰の復活までの歴史を、多数の資料で紹介している。
長崎歴史文化博物館
長崎奉行所立山役所の一部を復元整備した奉行所ゾーンでは、、奉行所の役割や機能、奉行所をめぐる歴史的な事件、キリシタン関係資料などを展示している。
有馬キリシタン遺産記念館
250年間のキリスト教の潜伏を支えた背景とキリスト教弾圧に至った経過、島原・天草一揆の状況をわかりやすく展示している。